Ribbons and Frills 作・若葉 薫

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男に女性文学などいらない?

 私は、昔から女性文学をどちらかというとよく読んできた方かもしれない。それは、時々従姉からいろいろな本をもらって読んでいたためだと思う。

 小学校時代に読んだ本の中で一番印象に残っているのが、黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」。教育の本来あるべき姿とは、ただの詰め込み教育以上の、心を動かす何かがなければならない、と子供ながらに感じたことを覚えている。

 それから今では、群ようこ、さくらももこ、みつはしちかこなどのエッセイを読むことも多いし、最近、世界中にファンの多い「赤毛のアン」のシリーズ全10巻を読破した。

 だけど、こう書いていくと、きっと「男のくせに、変な作品ばかり読んで……」と感じる人もきっといるに違いない。男女平等のこの世の中でさえ、女性文学を読んでいる男性というのは、奇異な目で見られることが多い。例えば、「窓ぎわのトットちゃん」の文庫版あとがきによると、男性読者からの手紙のほとんどには、「表紙が女っぽい」「タレントが書いた」「ベストセラーになった」という理由でこれまで読んでこなかったのだけれど、家人がどうしてもすすめるので読んでみた、というものが多かったらしい。優れた文学作品をそういう理由で敬遠してしまう傾向があるのは、本当に残念だ。

 私もそんな周囲の目を気にして、家では女性文学を読んでも、学校ではほとんど読まなかった。そのために、いろいろな作品を読む機会を逃してしまったことは、今になって後悔している。今読もうとしても、今度は「いい年こいた大人が……」という目で見られるのが落ちだろうし、児童書コーナーの本をどうやって借りればいいというのだろう。

 ただ一つ、バーネットの「小公女」だけは小学校の時に図書館で借りた覚えがある。今思うと、あの作品は、インドを植民地にしていた頃のイギリス、という背景があるのだろう。

 そもそも、男が女性文学を読んではいけないなどという周囲の意見には、理由とか根拠などない。それに、害など何もないどころか、女性の気持ちを理解したり感情移入したりする助けになる、というプラスの面の方が多いと思う。まあ、これは男性文学だ、あれは女性文学だ、といちいち区別することなく、よい作品を読んで楽しんでいくのが大切だと思う。

出典:“ねえ、どうして?”(1994年11月発行「オアシス」掲載)。


When I met Anne of Green Gables

 私が訪れてみたい国の一つに、カナダがある。すると、「どうして?」と聞かれる。もちろん、"Prince Edward Island"に行ってみたい、というのがその答えである。

 私が「赤毛のアン」という作品に出会ったのは、18歳の時であった。もちろんその時私は立派な(?)青年男子、家族の者は「アン・ブックス」全10巻を次々図書館から借りてきては、むさぼるように読んでいた私を見て、相当あきれかえっていた。きっと、心の中では私のことをキチガイ扱いしていたに違いない。だから私は、「赤毛のアン」を幼い頃読まなかったことを、非常に悔やんだものだった。

 私が一番感動を覚えたのが、Avonleaの四季の描写だった。「日本人は四季の感覚に鋭い」、とも言われているが、その感覚が日本人だけの専売特許ではないことは、この本を読むだけでわかる。四季折々の木々や野の花々。それらに囲まれているアンの歓声が、すぐ近くまで聞こえてくるかのようだった。

 もちろんそればかりが魅力というわけではない。マリラには「変わった子」だと思われながらも、想像の翼を広げることが好きなアン。それはまるで、自分の幼年時代と同じだった――もっとも私は、その世界は自分の心のうちに秘めておくだけで、他の人に打ち明けたことなどほとんどなかったが――。そのため、私の考えというものを表現する場としてのこの作品は、私にとってのAvonleaなのかもしれない。

出典:WAKABA Kaoru Anthology(1996年)


Sarah, Pollyanna, and Me

 私はもうひとりのジェミーだった。ポリアンナに出会う前から、自分で「よかったさがし(Just Being Glad Game)」をやっていたから。

 私の小学時代は、時々あったいじめなどで、つらく感じられることだってあった。その理由など、幼い私にはまだ理解できなかった。

 多感な心には、いじめという重荷は大き過ぎることがある。自殺という安楽死を選ぶ子供たちだって、当時も多かった。実を言うと、私だって何度考えたか知れない。とは言え、本気で実行に移したことはなかったが。

 だけど、次の日には、「いじめっ子よりはましなのだ」と考えて、自分を慰めていた。いや、これは自己逃避などではなかった。私には、物事の積極的な面を見る訓練が必要だった。

 セーラ、そしてポリアンナとの出会いはそんな時だった。若い年で両親を亡くすという逆境の中でも、決して喜びを忘れなかった二人。架空の人物とは言え、この二人の生き方から、どんなに励まされただろうか。

 たとえ涙に埋もれていようと、それが弱さの証明などでは決してない。誰だって、悲しいときには時に涙するものだ。大切なのは、涙という物理的なものよりも、心の奥底に隠れている、シンの強さなのではないだろうか。

 だけど、気分が落ち着いたら、また「よかったさがし」をしたい。幸せなどというものは、何気ない日常のあちこちに、かくれんぼしているものかもしれないのだから。

出典:WAKABA Kaoru Anthology(1996年)

補足:「愛少女ポリアンナ物語」の原作本は、ポーターの「少女パレアナ」と「パレアナの青春」です。ちなみに、Pollyanna(ポリアンナ)は、村岡花子訳では「パレアナ」と訳されています。


Chitchi, Sally, and Me

 私は花が好き。育てるのはちょっと面倒だけど、野に咲く花を見るのが好き。春は、小さくてかわいい、すみれの花。秋は、背高のっぽのコスモスの花。

 私が「小さな恋のものがたり」という作品に出会ったのは、今から2年前。ちょうど私が「空中散歩」という作品集を作っていた頃だった。同じ作者の漫画「ハーイあっこです」とか、自伝的小説「ふうちゃん窓をあけて」、その他のエッセイは、これまで読んだことがあった。でも、チッチとサリーに出会ったのはその後だった。

 いや、厳密に言うと、本当はずっと前にアニメで「小さな恋のものがたり」をたった一度だけ見たことがあった。内容はよく覚えている。夏休み、みんなと別行動で山へ行ったチッチとトンコを、心配したサリーたちが同じ電車に乗ってあとをこっそりつけていく、というものだった(確か7巻の内容)。

 チッチとサリーの仲。当時の現実の高校生なら、あんな仲はすぐウワサの種になって、知らないうちに消えてしまうのが多いだろうし、喫茶店にしょっちゅう入るなんて不良扱い。だから架空の物語とはわかっているけど、どこかうらやましいところがある。

 私は小学1年生の頃、よく近所の女の子と一緒に帰ったりしたものだった。まだ子供なのだから、男女の意識など、もちろん全然ないし、男も女も同じ!と、あっさり付き合っていた。私の両親もその子たちを家へ呼んで、一緒におしゃべりしたくらいだった。

 だけど、それはすぐにからかいの対象になった。「お前はあいつと結婚するのか?」「あいつはいつも女と遊んでるんだゼ!」

 今だったら、男女意識ってどんなことなのか知ってるけど、当時の私には、どうしてそんなことを言われるのか、まるで見当が付かなかった。なぜだか知らない理由で、私はからかわれているのだ。からかわれるのはそれだけじゃなかった。ちょっと赤い縁取りのハンケチを持っているだけで、《女っぽい》とからかわれることだってあった。

 とにかく、私はその圧力に負けてしまった。女の子と帰ったり遊んだりすることなど、すっかりあきらめてしまった。今の年齢だったら、こんな仲はどんなにうらやましいことかしれない、というのに……

 だから私は、今でもこのことを後悔している。だけど、そんな時にはチッチとサリーの物語を読んで、一緒に野の花を摘みながら帰った昔の良き出来事を思い出すことにしよう。

出典:WAKABA Kaoru Anthology(1996年)


Another Natsumi

「ママは小学4年生」エンディングテーマ(この愛を未来へ/益田宏美)の原曲である、モーツァルトのピアノソナタ(K.545 mov.1)です。


 「ママは小学4年生」。ある日、私は新聞のテレビ欄にこの文字を見つけた。

 小学4年生のママ? まさか、本当に10歳で子供ができちゃったんだろうか! それとも、何かの比喩? 疑問は次から次へと出てきた。

 とうとう、その疑問の答えがどうしても知りたくて、私は他の人に聞いてみた。

 「その赤ちゃんは、未来の世界からタイムスリップした、本当の自分の赤ちゃんらしい」。

 これで、気になる題名の謎がやっと解けた。要するに、タイムトラベルものだったらしい。私は以前からタイムトラベルものの作品は好きだったし、それにしても育児がテーマとは、珍しい! そんなわけで、早速その作品を見始めたのだった。

 あらすじはこのようなもの:15年後の未来からタイムスリップしてきた将来のなつみの子供、みらいちゃん。小学4年生にも関わらず子持ちになってしまったなつみ。赤ちゃん嫌いだけど、いざという時には頼りになる、漫画家の卵いづみおばさん。この3人は、私鉄沿線の新興住宅地、夢ヶ丘にあるなつみの家に同居している。しかし、なつみの両親はロンドンに出張していて事情をよく知らない。それに、赤ちゃんが未来から来たことは、誰にも教えられない秘密だった。なぜなら、歴史が変わってしまうかもしれないから――

 もちろんこのアニメの主な視聴者層は子供だろうけれど、内容的には大人でも十分楽しめるものだった。

 私事で恐縮だが、当時、私には5歳の妹と3歳の弟がいた。二人が生まれた時、私は中学生だったので、私も子守の手伝いをよくさせられたものだった。だから、子供を育てることがどんなに大変なのかは、よく知っている(つもりだ)。赤ちゃんの抱き方、ミルクの飲ませ方、おむつの替え方は基本。うまく寝かしつけるテクニックも知っていた方がいい。来客中など、泣いては困るときに泣かれることだって、しょっちゅうあった。こんな時など、自分の方が泣きたいくらいだった。

 とは言え、私の果たした分など、ほんの1パーセントにも満たないだろう。母など、毎日のように泣き声で睡眠を妨害されて、本当に大変だったのを今でも思い出す。

 だけど、赤ちゃんというものは、寝顔が何ともいえないほどカワイイのだ。もう、誰かに自慢したくなっちゃうくらい!……

 とはいかなかったのが現実だった。赤ちゃんの話になると、「おまえの父ちゃんと母ちゃんがアレをしてたの、見たことあるか?」とか、「妹と一緒に風呂入ってる?」などという興味本位のおきまり文句が、いつも返ってきた(今でもたまに返ってくる)。当時の私はそれが嫌で、深く追及されない限り、その話題を避けたり、隠したりしたのを思い出す。

 だから、その作品を見て、私はもうひとりのなつみだ、と思った。なつみだって本当は、みらいがかわいくてかわいくて、自慢して回りたかっただろうに。だけど、そんなことなどできなかったばかりか、ぼろが出ないように、うまく隠し通すことまでしなくちゃいけなかった。

 それになつみは、本当なら一日中みらいの世話をしたいのが山々だけど、学校に通っているので、その間、みらいをおばさんに預けなければならなかった。それはちょうど、会社勤めをせざるを得ない母親の立場に似ている。

 ロンドンで一生懸命仕事に励むなつみの両親。なつみは10歳だというのに、両親とは別行動が多かった。このことからすると、両親はきっと忙しくて、なかなか親子で過ごす時間が取れなかったに違いない。親子の心はすれ違ってしまい、本当のことが判明したのは、一番最後のことだった。

 そんな状況にも関わらず、いづみおばさんをはじめ大人たちの間でもうまくやっていく努力をし、みらいの世話まで一人前にこなそうとするなつみ。おばさんが入院すると、学校ではみらいの世話をしながら勉強にも励んだ。そして家に帰ってくると病院へ着替えを届け、掃除に洗濯に料理、夜遅くまでかかってやっと終わったかと思うと、今度は宿題が待っている。そう、ブラウン管の中の世界に、こんなにけなげな少女を見つけたのは、「おしん」以来だった。

 こんな風にして、10歳の若さにも関わらず、大人の仕事を毎日こなしているなつみが、私にはいじらしかった。だけど本当は、彼女も周りと変わらない、無邪気な普通の少女なのだ。みらいとの別れの後、母と楽しそうに談笑するなつみは、もう普通の女の子に戻っていたのを思い出す。

 その他にも、いづみと母の間で長く続いた仲違いとその後の和解、二人の母を持つ大介の心の葛藤など、「家族」というものを再認識させる様々なテーマが、この作品の中に織り込まれていた。それだけに、この作品が一部の人にしか知られずに終わってしまったのを、とても残念に思う。

 だけど、この作品に出会った人は、みんなと言っていいほど、長い年月が過ぎた今でも非常に愛着を持っているのだ。もちろん、私もそのひとりである。

出典:WAKABA Kaoru Anthology(1996年)

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