「文系みたいな趣味だね」。小説やエッセイを書くのが趣味だと言うと、必ずと言っていいほどこんな答えが返ってくる。やっぱり、高専で勉強している工学と、文学という取り合わせは、ちょっと変わっているように見えるかもしれない。
でも、ちょっと待てよ、科学者だから文章を書く必要がないなんて、誰が決めたんだろう。実験のレポート(特に考察)では自分の考えだけではなく文章の表現力もものを言うし、高専の授業では時々スピーチもある(一番有名なのが卒業研究の発表会)。科学者だって、ペンを持たなくては仕事にならないのだ。
私の場合、文章の組み立て方にはそれなりに自信があったのだが、ある日、重大な欠点に気が付いた。与えられた材料から文章を組み立てることは簡単でも、自分で材料を集めることができない!! これではいけないと思い立ち、私は文学作品(?)を執筆しながら、その練習を始め、今に至っている。
話は変わって、現在、高専の中で私が一番優れていると思う作家は、亜乱啓太氏である。彼はエッセイをよく研究しているらしく、短くても人を引き付けて読ませるような表現のうまい人だ。私も彼の影響を受けて、短くて読みやすい作品を研究するようになったが、まだまだ時間がかかりそうだ。
基本的に私は、原稿は下書きなしで直接ワープロで打ち込むという、ワープロ積極利用派である。だから執筆作業は非常にスムーズである。また、電子メールで意見交換をしたり、今流行のWindowsの機能を生かした表現(例えば、画像の貼り付けなど)にも挑戦している。そして学内ネットワークを利用した電子掲示板を作って、意見交換の場にしたいという夢もある。そこがペンを持つ科学者の強みでもある。
「この頃涙もろくなった母が 庭先でひとつ 咳をする」(秋桜)
「目を閉じて思い出す 母さんの面影……」(青い地球)
「母さんのいる あの空の下 はるかな北を目指せ」(母をたずねて三千里)
数を挙げればきりがないほど、母をうたった歌は昔はたくさんあったように思う。それなのに最近、そんな歌をあまり耳にしなくなったのはなぜだろう。
そして「母」という言葉もどんどん消えかかっている。その代わり、「うちの親」という言葉をよく聞くようになった。
それは現代社会において、父親の存在が忘れ去られていることにあるのだろうか。それとも、人からマザコン呼ばわりされるのを極端に嫌っているだけなのだろうか。でも、母を思うとか母を愛することと、母親のスカートのすそにしがみついているということは、まったく違うことなのに……。
それはともかく、私は、母のことを単に「うちの親」と呼ぶことにはなぜか抵抗を感じる。私にとって父親も母親もなくてはならない存在であるし、いつも感謝を忘れないようにしようと思う。
私の名前は、読みにくいことで有名である。初めて会う人の9割方は名字を誤って読むし、名前の方はというと、私に教えられなくとも正しい読みがわかるという人には、一度も会った事がない。それほど読みにくいのだ。しかし、読みにくいとは言っても、同じ姓名の人はまずいないのでそれはいいことである。
さて、皆さんがペンネームとか小説の登場人物の名前を付けるとき、どうしているだろうか。私は単に奇抜さだけで(もっとも、「悪魔」なんていうのは論外だろう)付けるようなことはしないことにしている。とは言っても、ほとんど直感で決めてしまうのが現状だ。それで大体問題ないことが多いが、たまに有名人と同じ名前になってしまった時には困りものである。それで、主人公とかペンネームのように重要な名前の場合は、学生名簿と、図書館にある有名人の名前の一覧の載った本をチェックすることにしている。それでも、(ある学生の家族と同じ名前になってしまったらどうしよう、たまたま自分の知らない作品とか俳優の名前と同じになってしまったらどうしよう……)と、悩みは尽きない。
学生名簿と言えば、クラスの人々の家族背景に関心のある母親の場合、大抵は学生名簿の保護者の欄を見ることが多い。女の人の名前だと「あの子の家、母子家庭みたいね」となるわけである。ところが、私にも経験があるが、男にも女にも使える名前(かおるや、まこと(誠、真、真琴)、しのぶ、など)の場合、誤解が生まれることがある。そもそも家族背景だけで人格を判断することなど、あってはならないのだ。
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。(紀貫之「土佐日記」)
日記はほとんど書かない方である。書いた時と言えば、学校の宿題で日記を書かされた時くらいのものである。でも書く内容がなかなか見つからなくて困ったものだった。今では日記に書きたい内容は山ほどあるけれど、それでも書かない。なぜかと言えば、毎日続けて書くほどの余裕はないし、書いているところを見られるというのが嫌だからだ。それなら日記なんてやめてしまえ、ということになる。まあ、週に一度書くとか、英語かフランス語で書くとかすれば、クリアできる問題なのかもしれないが。それに、ワープロで書いて、パスワードを掛けて保存すれば完璧だ。
一般的に言って、女の子は日記が好きである。例えば交換日記。これを男の子同士でやっているという例は珍しく、大抵は女の子同士か男女間でやることになる。授業中こっそり書いて手渡しする手紙も、その発展形だろう。
でも、男の子が日記を付けるとか、文通するというのはなぜ白眼視されることがあるのだろう。暗い性格と誤解されているからだろうか。それとも、暗いからというのではなく、几帳面な性格が癪に障るからなのだろうか。
やっぱり、「女もすなる日記といふものを、男もしてみむとて、するなり」とは、なかなかいかないものらしい。
私はホームシックにかかったことはほとんどない。4年生の時には、工場実習で諏訪方面にある時計工場で2週間ほど働いていたが、空気も澄んで涼しいところだったし、ずっとそこに住んでもいい!と思ってしまったほどで、ホームシックにはとうとうかからずに終わってしまったことを思い出す。
でも私は別の種類のホームシックにかかってしまうことがある。ある時突然、昔が懐かしくなって、(あの時代に帰れたなら!)と思ってしまう。タイムシックとでも言うのだろうか、小説を書いている時、ときどきそんな感じにおそわれる。
でもこれは実現不可能なだけに、ちょっと悲しいな、そう思う。
普通、アンケート用紙の学校の欄には、高校や専門学校や短大はあっても、高専という項目がないことが多い。「高専って、高校の一種でしょ?」「ええと、専門学校だったっけ?」と、高専という学校の存在自体、一般によく知られていないのだ。ロボットコンテストが始まってからは、少しは知られるようになったかもしれないが、それでも、アンケートの欄では、いまだに高専だけ見捨てられていることが多い。そんな時、私は正直者(ひねくれ者?)なので、「高専と高校は違うのに!」とつぶやきながら、「その他」の欄に○をつけている。
でも、いい面も一つだけあった。4、5年生になっても、入場券売場で「高専生1枚」と言うと、高校生料金にしてくれることが多いのだ。
さて、高専という学校は本当に心の広い学校である。皆さんは入学したばかりの頃、そのことについていろいろ気付いたに違いない。違う信条を持った人でも、偏見を持ったり軽蔑したりせず、普通に生活していく。これが高専の伝統である。
しかし、その良き伝統も、ある心ない学生たちによって壊れかけようとしている。ある人を「あいつ、ひょろひょろして、蹴飛ばせばすぐにでも倒れそうな奴だ」とか、「首から1眼レフカメラをぶら下げて、いつもうろうろしているような奴は、許せない」などと攻撃し、それが間違っていると言うと、「これは単に好き嫌いの問題だから、自分の勝手だろ」と、自分を正当化するなどということは日常茶飯である。また、一年生の教室に貼られた部のポスターに少女趣味的なイラストが使われているからというそれだけの理由で、権限もないのに勝手にはがすということもあったらしい。彼らはあまりにも極端なほどにマニア嫌いなのだ。確かに私も行き過ぎた趣味や服装は好きではないが、ファッション雑誌に載っているような服の着こなし方をしていないとか、スポーツよりも家の中でやる趣味が好きだという理由だけで軽蔑するのは極端すぎるだろう。
高専とは、基本的に科学少年少女の集まりである。しかし、その事実を知らずに入学してしまい、結局、理想と現実の大きなギャップに気付くこともあるだろう。でも、もしそうなったとしても、真面目な学生を軽蔑し、自分の気に入らないことはことごとく排斥するなどという心の狭い人間には、私はなりたくない。
出典:1994年5月発行「おあしす」。一部加筆修正。