僕の赤いランドセル

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 今日も僕は学校までの道のりを、全速力で駆けていった。車にひかれそうになっても、誰かにぶつかりそうになっても、お構いなしだ。もう息は切れそうだった。頭もくらくらしてきた。でもたとえ転びそうになっても……。
 そう思っていたら本当にふらふらと重心を失って、とうとう転んでしまった。アスファルトの硬い道路が、ざざざざあああっっっ!!!っと、まるでヤスリのように僕のひざっ小僧を削っていったのを感じた。
 ひざを見ると、血で真っ赤だ。でも、僕は走り続けなくちゃいけない。僕は急いで起き上がると、またよろよろとよろけながら、さっきのように走り始めた。

 「おーい、赤ラン!」
 「あいつ、男なのか? 赤いランドセルなんかしょって」
 僕の背中で、僕をあざける声がする。
 (そうだ、僕は今日もあの恥ずかしいランドセルを背負っていたんだった!)ランドセルを背負っている背中が、かあぁぁっっ!!と火照ってきた。さっきの傷は今ごろになって痛みだしたけど、そんなのは赤いランドセルの恥ずかしさなんかに比べたら、どうってことなかった。僕はあのあざけりをしきりに振り払うかのように、最大限の力を振り絞ってダッシュした。


 うちは借金の返済で首が回らなくなって、ランドセルを買うお金もない。そんな話を聞いたのは3月も終わり頃だった。僕のお母さんは僕が4歳の時に死んでしまっていたので、その時は、お父さんとお姉ちゃんと僕の3人で暮らしていた。
 「いやだいやだ、すぐ買ってくれないと!!」「ランドセル、ランドセル!!」僕がいくら泣いてもおかまいなし。1時間か2時間くらいは泣いていたと思う。「ランドセルがないと、小学生になれないのにぃー!」
 「しょうがないわね。そんなにランドセル、ランドセルって言ってるんだったら、あたしのランドセルでもしょっていったらどうなの? 今度中学生になるし、あたしは要らなくなるから、あげるわ」僕のしぶとさにあきれ返ったお姉ちゃんは、僕の目の前に使い古しの赤いランドセルを投げると、台所へ戻っていった。これが、あの赤いランドセルだった。


 いま思うとあれは、泣いている僕をただからかっていただけなのかもしれない。でも本気に受け取ってしまった僕は、その古傷だらけのカバンを開けて、お姉ちゃんが貼ったキャンディ・キャンディ*1のシールをはがしていた。
 「しげる! ひょっとして、本気でそのカバン、使うつもり!?」お姉ちゃんがびっくりして聞いた。
 「だって、僕にくれたんでしょ?」この単純な論理に負けたお姉ちゃんは絶句したまま、部屋を出ていった。それはともかくとして、その時僕は、学校にしょっていけるランドセルがやっと手に入って、とてもうれしいということしか頭になかった。


 でも、やっぱりあのランドセルは赤いランドセルで、“男の子の色”じゃなかった。僕は学校に着くと、教室まで一気に走っていき、電光石火の勢いでカバンの中のものをすばやく出すと、後ろの棚にしまい込んだ。いやな色のカバンだったが、1年生はカバンに「学童安全」と書いてある黄色のカバーを付けることになっていたので、ロッカーにしまっておけば、それほど目立たなかったのはまだ救われる思いだった。
 むしろ、一番問題になるのが学校の帰りだった。上級生と一緒になってしまうので、今日の朝みたいに、毎日のようにからかわれるのだった。
 「赤ランが通るぞ!」
 「ねえねえ、この子、本当は男の子なんだって!」
 「ええっ、信じられない!」
 「あの子のうち、ビンボーだから、ランドセル、由希さんのお・さ・が・りなんだって」

 入学したての頃など、僕はいつも大声で泣きながら家まで走って帰ったものだった。いつまでも涙も鼻汁も止まらなかった……ヒック、ヒック、と。
 でも、1ヶ月も経ってしまうと、そんなのは無視して、さっさと横を通り過ぎていくことを覚えた。だけどやっぱり恥ずかしかった。いま考えれば馬鹿らしいけど、みんなにはランドセルの赤い面ができるだけ見えないようにと、後ろの黄色いカバーが彼らの方を向くようにしながらカニ歩きで横を通り過ぎたものだった。

 いや、まだそんなのはいい方だったのかもしれない。こんなこともあった。僕がやはりいつものように学校から走って帰っていたとき、石につまずいて転んでしまった。それを見ていたおばさんいわく、「おじょうちゃん、大丈夫?」
 僕は(女の子と間違われるなんて、いやだな)と思ったけど、(赤いランドセルをしょっている男の子よりは、女の子でもいいか)と思って、そのままにしておいた。
 「しげ子ちゃんっていうの。どこに住んでいるの?」そのおばさんは僕の名札をちょっと見ると、そう尋ねてきた。
 「石根3丁目」あとで思えば失礼だったかもしれないけど、僕はぶっきらぼうに答えた。僕の本当の名前はしげるなのに、名前を間違われたことが気になったのだった。
 「そう……。じゃ、気を付けてね、バイバイ」
 しげるとしげ子。ちょっとくずして書けば似ているし、女の子ならしげるじゃなくてしげ子ちゃんかな、そう思ったのかもしれなかった。


 ある日、僕はいい計画を思い付いた。赤いランドセルを黒いマジックインキで塗って、黒いランドセルに変身させるのだ。家に帰ると、僕は早速その計画を実行に移した。とりあえず、両わきの目立たない部分で試し塗りを始めた。
 だが、家にあるたった1本のマジックインキは、もうインキがなくなってしまったのか、薄くなっていた。それにもかかわらず僕は作業を続けていたが……。
 「しげる、何やってるの!」後ろを振り返ると、お姉ちゃんが立っていた。
 「な、何でもないよ!」
 「見せなさい。……しげる! あんたが欲しいと言ったからわたしがあげたランドセルでしょ! そんなのにいたずら書きなんて……!」
 僕は、(じゃ、あのキャンディ・キャンディのシールはどうなんだ)と思ったが、怒られそうなので言わなかった。やっぱり、マジックはお姉ちゃんに取り上げられてしまった。それから2、3日は洋服にあのインキがついてしまい、お姉ちゃんには洗濯のたびに小言を言われたものである。


 この頃になると、「お姉さんのお下がりの赤いランドセルをしょってる一年生の男の子」の話は、近所のおばさんたちの間でも有名になっていたらしい。農家のおばさんたちが井戸端会議をしている横を僕が通り過ぎると、そのおばさんたちは急に黙って、僕のことをじろじろ見ているのだった。そして通り過ぎると、何やらひそひそ話をしていた。そんな事が、何度かあった。
 通学路には、金属加工の小さな工場があったけれど、そこのおじさんたちは、妙に人なつっこかった。「えらい派手なランドセルだな、ハハハ」と笑うので、僕はふくれて嫌な顔をした。僕が泣きそうな顔をしたその時、休憩中のおじさんの一人が、「わりいった、わりいった(悪かった)」と言いながら、僕にマックスコーヒーを飲ませてくれた。僕が缶に口を付けたその時、「男はつらいよ」の寅さんそっくりの顔をしたこのおじさんは、「あー、小学生が買い食いしちゃっちゃ、おいねえっぺよー(いけないだろう)」と言うもんだから、僕は「やっぱり要らない」と言って返そうとした。おじさんは笑いながら、「今日は特別な、ま、一服すんべや」と言って、僕にもう一度缶を手渡した。
 このおじさんは、僕にいろいろ質問してきた。今思えば冗談だったのかもしれないけれど、男の子はやっぱり黒いランドセルだから、おじさんが買ってやろうか、などと言ってきた。「要らない」と答える僕にそのおじさんは、お前は欲しいのに、黒いランドセルは要らないってお父さんやお姉ちゃんが言っているのか、と尋ねた。僕はすぐに首を横に振った。
 でも正直なところ、僕はみんなと同じ黒いランドセルが欲しくて欲しくてたまらなかった。でも、それを言うのは、自分のわがままだ。家はお金がないのに、自分のわがままのためにお金を使わせてしまうわけにはいかない。毎日毎日が苦痛だけど、お父さんやお姉ちゃんのためにも、六年間我慢しよう。僕は幼いなりにも、そう思っていた。


 ある夜、僕は夢を見た。学校の帰り、みんなにあのランドセルのことでいじめられて、僕は逃げていた。後ろを振り返ると、同じ学年の子から2、3年生まで、(正確には覚えていないが)10人から15人くらいの男子が面白がって、僕のあとをもっと速く追いかけてきた。ああ、もっと速く逃げなくては……僕は夢中になって走った。
 「あ、空を飛んでる!」僕の体は気球のようにふわりふわりと浮かんでいき、気が付くと僕は空気の海を平泳ぎしていた。手でかき、足をけり、まるで空を泳ぐ魚のようだった。電柱や家の屋根を下に見ながら、僕は空を飛んでいった。
 「空を飛ぶって、気持ちがいいなあ!!」

 気が付くと、僕は空の上ではなく、ふとんの上に寝ていた。一体、あの夢は何だったんだろう……。僕はそう思いながら、学校に出かける準備を始めた。

 僕が自分の机の上を見た時だった。そこには、あの赤いランドセルはすっかり姿を消してしまい、新品の黒いランドセルがあった。でも僕は、うれしいというよりは何か不思議な感じだった。
 「お姉ちゃん、あの、ランドセル……」
 「ああ、あれね。横須賀のおじさんが送ってきてくれたの。どうしてそのことがわかったのかしら……まあ、いいわ。ちゃんとおじさんに手紙を書きなさいね」
 「お姉ちゃん、僕、夢みているんじゃないかな……」
 「じゃ、ほっぺた、つねるわよ!」
 「いてててて!!」
 こういうわけで、あの赤いランドセルの一件は、僕の知らないうちに解決してしまった。その日から新しい、みんなと同じランドセルになって、僕がとてもうれしかったことは言うまでもない。そのランドセルはピカピカだったけど、お姉ちゃんのみたいな暖かみがなかったのだけが、ちょっとさみしかった。そりゃあ、使い込まれてない革だから当然なんだけれど。結局、あの赤いランドセルは1年も経たないうちに僕の脳裏からほとんど忘れ去られてしまった。


 あれから約十年経ち、今、僕は高専に通っている。僕は中学生になっても「赤ラン」と呼ばれ続けていたけど、もう、そう呼ぶ人はいなくなってせいせいした。でも……。
 僕の同じクラスの友達は、アニメファンだ。僕も宮崎駿や高畑勲の作品なら好きなので、話は少し合う方だ。でも、僕が彼と話をしていると、「気を付けろ、オタクがうつるぞ!」とか僕に忠告してくる人がいる。そんな時、僕は悲しくなる。彼は根っからの科学少年で、確かに、はたからみればガリ勉みたいな出で立ちで学校に来るけど、中身は全然変な人じゃないのに。
 (やっぱり、どこの学校も一緒だな)窓ぎわのトットちゃんに出て来るトモエ学園のような理想の学校など、今時どこにもないことを思い知らされる一瞬である。

 それから、最近知ったことなのだけれど、例の金属加工工場のおじさんは、その工場の社長で、横須賀のおじさんと知り合いだったそうだ。今はどうしているだろうか。今度会ったら、あの頃のお礼を言わなければ、と思っている。


*1みなしごのキャンディが主人公の少女漫画。早い話が、赤毛のアンとあしながおじさんを足して2で割ったような内容。昭和50年代の女の子は本当にこの漫画に夢中だった。

出典:1994年5月発行「おあしす」。

解説

 「これって実話?」と聞かれますが、実話ではありません。母はピンピンしてますし、姉もいません。学校には真っ黒々のランドセルを堂々と背負って学校へ行きました。

 でも、私が通っていた片田舎の小学校では、ハンカチやら文房具やら、ラブリーなグッズは嘲笑の的となったものでした。

 また女の子と一緒に登下校することもしかり。小学一年生の頃。同じクラスの女の子とは、手をつないで帰るほど仲が良かったのに、一年近く続いた上級生の嘲笑についに負けてしまい、結局その子との仲もうやむやのまま自然消滅してしまいました。くうーーっ!! 今となっては悔やんでも悔やみきれない! 今の我々が見たら、だれもがうらやむほどの仲だったのに!! だから、最近テレビでやってる「あずきちゃん」を見ると、昔の淡い、まだ恋とも言えぬ友情を思い出して、胸がキュンと痛くなってしまいます。

 この作品は、物書きに自己流ながらもだいぶ慣れてきた頃の作品。まだまだちょっと細かいところが変かもしれませんが、改めて読み返してみたら、それでも、それなりの出来ではあるなぁと、改めて思いました。最近は物語も小説も書いてないし、腕が鈍ってるかもしれない……ここで使っている表現技法もだいぶ忘れているしなぁ……(97/9/17)

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