説得合戦

戻る

 毎年恒例の恐怖の日とは、今日のこと。議長の号令で、学級会が始まった。
 議長と副議長の机に向かって、コの字型に並べられた38個の机。僕は腕を組んでうつむいたまま、その席の一つに座っていた。
 ――何も悪いことが起こりませんように、そしてこの時間が早く終わりますように……
 黒板には、「会長 副会長 書記 会計……」と並んだ文字。議長の呼びかけと、挙手と、拍手によって、その下には次々と名前が記されていくのだった。

 ――会長に立候補したい人は手を挙げて下さい!
 ――いないようなので、推薦でもいいです。だれか会長に推薦する人はいませんか?

 「若葉君がいいと思います!」誰かが決まって、僕を役に推そうとするのだ。
 「僕は辞退します!」
 ――それでは、他に誰かやってくれる人はいませんか?
 「……わたしがやります」
 これが、毎年のお決まりのパターンだった。

 しかし、今年という今年は、待てど暮らせど、「会長」の下にはなかなか名前が書かれなかった。それに引きかえ、「副会長」とか「会計」とかはどんどん埋まっていく。僕の不安は、だんだん焦りに変わってきた。
 ――もしかしたら、今年は最悪の展開になるのでは……!


 「議長!」突然かかった声。それは野島君だった。「会長は、若葉君がいいと思います!」
 「賛成!!」という声の大きな渦。

 ――とうとう、その時は来てしまった!
 覚悟を決めていたことだが、本当にその通りになってしまったとは!
 「反対です!」僕は、まるで椅子にバネが付いているかのように、素早く立ち上がって叫んでいた。

 「でも、若葉君は頭がいいから、会長としてうまくやれると思います!」
 「賛成!!――」
 「お前、会長やれよ!」

 「頭の良し悪しと、会長の向き不向きとは、違うと思います。だから僕は辞退します!」
 「でも、会長の仕事ができるのは若葉君しかいないし、若葉君が絶対にいいと思います!」丸山君が答えた。
 丸山君は野島君の手下で、みんなにはチビと呼ばれている(もちろん僕はそんな風には呼ばなかったが)。そして、いつもは僕のことをけなしているくせに、こういう時だけは調子いいのだった。
 「僕もそう思います――」
 「みんな、若葉君に会長をやって欲しいと思っているし、お願いします!」

 「とにかく、」議長が、会長推薦派と僕の議論を中断した。「とりあえずは決をとりたいと思います。若葉君がいいと思う人――」

 次の瞬間、教室を埋め尽くしたのは、まるでスギ林のスギの木のように、ずらっと直立不動を保った39本の腕。
 ――まるで、ナチスの敬礼だ。
 みんな、次の瞬間には「ハイル・ヒットラー!」と叫び出すのではないかと思うほど、それはもう高々と腕を上げていた。
 僕はこの不穏な様子を見て、にわかに青ざめた。脳裏を横切ったのは、「四面楚歌」の4文字。
 ――ああ、こんなことが許されるのか!
 でも僕だけは、「絶対にこの手は挙げないぞ!」とばかりに、胸のあたりで固く腕を組んでいた。

 「では、会長は若葉君に決まりました!」
 ――(ほっ!)パチパチパチ……
 「それでは若葉君、会長になったあいさつをどうぞ!」
 「さっきも言ったように、僕は会長には向いていないので、会長はやりたくありません!」
 チャイムが鳴った。そして学級会は翌日に持ち越し。しかし、僕の声もむなしく、その日の議事録には、「会長――若葉薫」と書かれたらしかった。


 次の日の学級会。今日も、昨日に引き続いて、説得合戦が始まった。
 「若葉君は去年の学年末テストで1位だったじゃないか!」昨日と同じく、説得の首謀者は野島君。「だから、会長には向いていると思います!」
 「反対です!」また僕が反論する、という、また昨日と同じパターン。「成績がどうであろうが、一番重要なのはクラスをまとめていく能力だと思います!」
 「その能力があるのは若葉君しかいないんだよ! 頭がいいところで、お願いします!

 僕はクラスのみんなの短絡思考にほとほとあきれ返っていた。僕がたとえ勉強が得意だとしても、それがどうしてクラスをまとめていくことと関係あるのだろう? そういう頭の良さというのは勉強の頭の良さとは別物のはずなのに。
 それにみんな、この時に限ってすっかり忘れてしまうんだ、僕が何かのリーダーをやるたびに、「ねえ、まだ?」「グズグズしてんなよ!」「あたしが代わりにやったげようか?」って、せかされてばかりいること。「やっぱり、僕はリーダーには向いていないんだ!」と悩んでいる僕のこと。

 「いいえ、僕はやりません!」
 「でも、会長になれるのは若葉君しかいないと思います!」丸山君も野島君に同調して言った。
 ――賛成!!
 「みんなも賛成していることだし、若葉君、お願いします!」彼は僕に向かって、まるで丁稚小僧のように、斜め30度に頭を下げた。
 彼は昨日までは野島君とグルになって、やれ、お前の家はボロ屋だの、やれ、お前はひ弱だの、と言って僕のことをからかっていたのだ。だから、おかしさがこみ上げてきてしまった。
 だけどもちろん、今は笑ってなどいられるような状況ではなかった。少しでも首を下に向けると、うなずいたように思われる。そう思って、ちょっと上の方を向いていた。

 「おい、わかったのかよ!」突然、僕は野島君に胸ぐらをつかまれた。「てめえ、会長、やれよ! わかったな…… おい、聞いてンのかよ! 『やらない』なんて言ったら承知しないからな!」
 「やりません!」ここまで来て、妥協するわけにはいかなかった。

 ――びしっ!

 それは、野島君のビンタだった。
 「何やってんだよ!」
 「暴力はやめろよ!」
 「よけい、会長をやりたがらなくなるじゃないか!」
 混乱に陥ったまま、学級会が終わってしまった。


 「君の気持ちも分からないわけではないが……」
 その日の放課後、僕は職員室に呼び出された。「だけど、せっかくみんなが君に会長をやってもらいたい、と思っていることだし、先生からも、頼むよ」

 もし僕が、あの学級会の日以前に先生から「会長をやってくれないか?」と頼まれていたり、僕の推薦が純粋にクラスメートの善意から出ていたのだとしたら、あるいは引き受けていたかもしれない。
 でも今は状況が違っていた。「多数決」という、表向きは民主主義的な方法を使いながら、本当は一個人に押しつけるという、クラスメートのせこい悪巧みに感づいていたのだった。そして、その考えが間違っている、ということをどうしても示したかった。
 もしここで会長を引き受けたなら、みんなは、とうとう“学級会の多数意見”に僕が屈服した、とみなしたことだろう。

 「若葉君、会長の仕事とか、あまり堅苦しく考える必要はないんだ。このクラスだけ会長が決まらない、というのもちょっと問題だしな……。まあ、名前だけでもいいから、なってくれないか?」
 せっかくの先生の提案に、(ちょっと申し訳ないなぁ)と思いながらも、僕はやっぱりイエスとは言わなかったことを覚えている。


 それから会長を決める学級会がまた1、2回はあった。でも39対1、つまり多数意見と僕の意見は、相変わらず平行線のままだった。
 掲示板に貼ってある、学級会の役職の「会長」の欄も、しばらく空白のままだったが、よく見ると、鉛筆書きで薄く「若葉薫」とあった。僕は消しゴムを握りしめると、その弱々しい黒い文字を、消しかすと一緒にぐいっとはぎ取った。

 そのころには、僕はクラスメートみんなの顔を直視できなくなっていた。もし顔を見ると、「会長やれよ!」と言われるかもしれない! それに、休み時間になったら、みんなに取り囲まれて、説得合戦がまた始まるかもしれない! そんな恐怖感に襲われるようになってしまった。
 だから、学校へ来て、帰るまで、できるだけみんなと会わないようにして、必要最小限の会話しかしないことにした。休み時間は、職員室近くの廊下とか屋上の踊り場へ避難した。今は、クラスメートみんなが――去年仲が良かった人たちでさえ――敵だった。

 そして生まれて初めて、僕は学校へ行くのがつらくなった。これまでもちょっとしたいじめとかはあって、「学校って、イヤだなぁ」と思っていたことはあったけど、登校拒否をしたいとまで思ったことはなかった。先生は優しかったし、たとえ友達に恵まれなくても、授業を受けたり、体育の時間に動き回ったりすること自体が好きで学校に通っていたようなものだった。だから、たとえ昨日学校でいじめられても、今日は忘れている、といった感じだった。

 だけど、その「学校へ行きたい」という気持ちが、だんだん「学校へ行きたくない」という気持ちに負けてきてしまっているのだった。それなのに、僕は毎日、そんな気持ちを押し殺して、無理に学校へ通っていた。そして毎日、クラスメートとあまり顔を合わせずに生活していった。


 そんなある日、とうとう僕は学校で吐いてしまった。これまでのストレスがたまっていたからに違いなかった。これは、僕にとってはごくささいなことだったし、気に留める必要もないと思っていた。だけどなぜなのか、とにかくそれがきっかけとなって、先生と両親が事の重大さにやっと気付いてくれた。そして、ようやくあの「説得合戦」が終わったのだった。

 結局、掲示板の「会長」の欄には誰の名前も書かれることのないまま、この1年が過ぎてしまった。そして、実質的には副会長が会長の仕事をやっていた。さらに、2学期いっぱいで副会長の一人は転校してしまって、残りの一人の副会長はちょっと忙しそうだった。
 だから、今でもこの事件を思い出すたびに、「副会長には悪いことをしてしまったな……」と思ってしまう。「僕はこれでよかったんだろうか、もしかしたら、自分の身勝手のために、39人相手に闘ってきた、ということになるんじゃないかな……」と。
 いや、だけど、僕だけに「会長になる義務」がある、という考えはやっぱりおかしいんだ。これでよかったのだ、と思う。


出典:"Tomorrow COM2"(T-COM) 1995年9月号。一部加筆修正。

戻る