「国語表記に、まともな理論を取り戻せ」。
「音声言語こそが本物の言葉で、文字は発音を写し取る道具に過ぎない」「漢字をなくすか数を大幅に減らして発音通りの表記にする等、国語表記を簡単にすれば学びやすくなる」(※それは最初のうちだけです)など、まともでない理論の影響を大きく受けて「当用漢字表(現在の常用漢字表)」や「現代かなづかい(現在の現代仮名遣い)」が作られました。
その悪影響をなるべく正したいものです。「正字正かなの復興」とは「時代遅れの国語に戻す」事ではありません。「先人達が築いてきたまともな理論に立ち返り、それを未来の新しい国語に採り入れる」事です。
もちろん現実問題としては、新字新かなで書かざるを得ない場面も多いものです。それでも、新字新かなとは異なる、正字正かなの発想や原理原則を学ぶ事によって、国語をより深く知り、国語をより豊かにする事ができます。
「『イ』の音に対し『い』『ひ』『ゐ』のどの仮名で書くか」といった、「和語・漢語をかなで書く場合の、かなの書き分けの決まり」の事です。和語の仮名遣を「国語仮名遣」、漢語の仮名遣を「字音仮名遣」と呼びます。
皆さんは子供の頃「どうして『くっつきの「を」』だけ、『お』ではなく『を』で書くのか」と疑問に思った事はありませんか。「『くっつきの「を」』だけは特別な役割の言葉だから、これだけは『を』で書く」と説明を受けた人がきっと多いはずです。そして、「平安時代と今とは発音が違って……」などと説明を受けた人は多分少ないはずです。
実は、歴史的仮名遣で「同じ音に対し複数のかなが当てはまる」のは、これと同じ理由で、「『オ』で読む文字をランダムに『お』『ほ』『を』を書く」のではなく「言葉によって書き分ける」のです。現代仮名遣いでも、助詞の場合に「ワ」「エ」「オ」を「は」「へ」「を」と書いたり、言葉によって「じ・ぢ」「ず・づ」「ええ・えい」「おお・おう」を書き分けたりしますが、歴史的仮名遣には、同様の「言葉によるかなの書き分けの決まり」が、もっとたくさんある、と思っていただければ、話が早いです。
中学校の古文の授業で説明される様に、「発音が時代と共に変化したが、かなの書き方は一緒だったので、発音とかなにずれが生まれた」のは確かです。「書き分けの決まりを覚える必要がある」ので、確かに手間も掛かります。しかし、結果としては、「くっつきの『を』」の様に「言葉を見分ける手立て」になったり、「ぢ」「づ」の仮名遣の様に「どんな言葉を元に出来た言葉なのか」がわかりやすかったり、時代や地方の発音によっていちいち書き直さずに済むなど、良い面もあったので、何百年もの間残ったのです。
「『イ』の音に対し『い』『ひ』『ゐ』のどの仮名で書いてもいい」なら苦労は要りません。「どれでもいい」ではなく、言葉によって、どのかなを選んで書くのかがきちんと決まってます。「古風な雰囲気を出すために『ひ』『ゐ』の字で書く」のではないので、いくら「ひ」「ゐ」が好きでも「無い」を「無ひ」「無ゐ」とは書きません。「『かなづかひ』『ゐ(居)る』など、歴史的仮名遣の決まりで『ひ』『ゐ』で書く言葉に限って『ひ』『ゐ』」で書くのです。
これは、現代仮名遣いで「みじかい」「みぢかなばしょ」を「みぢかい」「みじかなばしょ」と書かないし、「おおかみ」「おうさま」を「おうかみ」「おおさま」と書かないのと同じです。現代仮名遣いでその種の書き分けをやめて一律「じ」「おう」に統一する事には反対の人が多いかもしれませんし、その書き分けには意味がある事も、私達も何となくわかってるはずですが、歴史的仮名遣には、その種の決まりがさらにたくさんあります。
厳密には細かな部分が異なりますが、ほぼ同じ意味の言葉です。
「旧仮名遣」は昭和21(1946)年に「現代かなづかい」が出来る前に社会で広く実践されてきた仮名遣一般を漠然と指す言葉ですが、「歴史的仮名遣」「正仮名遣」は、厳密には、その中でも江戸時代の僧の「契冲」によりまとめられた仮名遣や、それを元にした仮名遣を指します。(旧仮名遣のもう一つの流派として、藤原定家のまとめた仮名遣を元にした「定家仮名遣」もあります。「かをる(香る)」を「かほる」、「ゆゑ(故)」を「ゆへ」、「をる(折る)」を「おる」と書くなど、細かな部分が異なります。契冲による仮名遣も、定家仮名遣の基礎があってこそのもので、昔の文書のさらなる研究により発見された誤りを修正したものです)
「正仮名遣」は「歴史的仮名遣」と同じ意味ですが、「現代仮名遣いはあくまでも略式の書き方で、歴史的仮名遣こそ正統な書き方」とみなす人のよく使用する言葉です。
「歴史的仮名遣は現代の言葉を書くのに適切ではなく、現代仮名遣いこそ現代の『正仮名遣』だ」とみなす一部の国語学者は「正仮名遣」の言葉を嫌がる傾向があります。「歴史的仮名遣や古文に詳しい国語の専門家」であっても、「現代の口語文を歴史的仮名遣で書く」人を非難したり侮辱する人も一部に存在しますので、ご注意下さい。
厳密には細かな部分が異なりますが、ほぼ同じ意味の言葉です。昭和21(1946)年の「当用漢字表」や昭和24(1949)年の「当用漢字字体表」で「簡易字体」が採用された漢字の字体を「新漢字」「新字(体)」「略字(体)」と呼びます。「簡易字体」になる前に、「正式な書き方」とみなされてきた漢字の字体を「旧漢字」「旧字(体)」「正字(体)」と呼びます。
「古文・現代文」→昔の文章か今の文章か
「文語体・口語体」→文体
「歴史的仮名遣・現代仮名遣い」→同じ音に対する仮名の書き分け方の決まり
と、それぞれ別のものです。古文でも現代文でも、文語体でも口語体でも、歴史的仮名遣の決まり通りに書けば歴史的仮名遣です。
「正」には、「正・誤」の「正」だけでなく、「正式・略式」の「正」の意味もあります。後者の例として、「正社員」「正三角形」「正装」でない社員や三角形や服装は「誤社員」「誤三角形」「誤装」ではありません。
「正字」については、「略式の書き方を一切してはならない」ではなく、「長年正則とみなされてきた書き方を誤りとして、略式の書き方を正則に持ち上げるのは良くないのではないか」と思って「正字」と呼ぶのです。
中国でも日本でも、「畫」に対する「画」、「體」に対する「体」、「雙」に対する「双」などの字体が昔から使用されてきました。手書きする分には後者の字の方が画数が少なく書きやすかったのですが、「基本となる字体」は前者でした。この「基本となる字体」を「正字」とか「正漢字」、中国語では「正体字」と呼びます。
基本となる字体が決められたのは、中国の「科挙」の採点の都合上もあったとされます。「字体が簡単な方にする」のではなく「偏や旁を安易には簡略化しない」方針だったのは、「同じ部品を持つ字同士の意味の関係性がわかりやすい」利点もありました。手書きではなく活字体についても、細かな部分は異なりますが「正字」があります(「康熙字典」を元にした字体が活字体の事実上の標準とされてきた)。
それでは「正仮名遣」についても同じく「正式・略式」の「正」……とみなしたいところですが、「現代かなづかい」がどんな性質のものだったのか振り返ってみると、「現代かなづかい」に「仮名遣」の名前を付けて呼ぶ事自体が、実は疑問です。「仮名遣」とは元々「同じ音に対し複数のかなの候補がある場合の、かなの書き分けの決まり」の事ですが、「それは無駄な骨折りなのでなくさないといけない」との事で、「仮名遣」の大半を無くして作られたのが「現代かなづかい」だったはずです。そこに申し訳程度に「歴史的仮名遣」に基づく書き分け規則を残したので、「かなづかい」の名前で問題ない、として、「現代かなづかい」と呼んだのです。まるで「カニカマにカニエキスが入ってるからカニ肉」「焼酎に着色料と香料とウイスキーの原酒を数%入れたからウイスキー」と呼ぶに等しい「看板に偽りあり」の名前ではありませんか。
この意味では、「本当の意味で仮名遣と呼べるのは歴史的仮名遣だ」とみなせますし、「アリバイ」としてではなく本当に「仮名遣」を正書法の根本原則として組み込んだ歴史的仮名遣こそ「正仮名遣」と私は呼びたいです。
「現代かなづかい」や後継の「現代仮名遣い」は、「一部の例外を除いて仮名遣をやめた、もう一つの書き方の決まり」と私はみなしますし、現実問題として私もこの書き方で書く事があります。通りが良いので私自身も「現代かなづかい」「現代仮名遣い」の名前で普通に呼びます。それでも本当は、これに「仮名遣」の名を付ける事自体にちょっと問題がある気がします。
「正」の字については前の項をご覧下さい。
言葉に「正しい」も「正しくない」もないなら、別に旧字旧かなで書くのを否定すべき理由はありませんね。それではどうしてその後に続く言葉は大抵「現代語には旧字旧かなより新字新かなの方がふさわしい」なのですか。「正しい」とは呼ばないけど、実質的に似た区別を作ってるのではありませんか。
本当に「言葉に『正しい』も『正しくない』もない」なら、国語辞典なんて要りません。何をモノサシにするかによって「正しい」の基準は異なるかもしれませんが、どうして言葉に「正しい」の基準を設けてはいけないのですか?
そんな事は言ってません。楷書には楷書の正字があって、活字体には活字体の正字があります(実際、康熙字典の前文は楷書体ですが、康熙字典体ではありません)。
蛇足ながら、漢字の「正しい」は「唯一正しい字体が厳密に定められ、そこから少しでも外れると正しくなくなる」のではなく、「許容範囲のある正しさ」です。旧字体は常用漢字の簡易字体よりもその許容範囲が広めです。
「ずめん(地面)」の「ず」の音だっちゃね。(宮城弁)
なるほど興味深いご意見です。そして、「『ち(地)』が濁ったものではない」だけは正しいです。しかし、九州や四国の人にも同じ説明をもう一度出来ますか。結論から先に申しますと、この意見は、あくまでも「標準語の発音」から見た立場です。
かつての日本語では「じ・ぢ」「ず・づ」は発音自体異なり、発音に基づいてはっきり書き分けられました。「じ」と異なる「ぢ」の音があったので「地」が「ぢ」と書かれたのです。しかし、関東で同じ発音に、後に京都でも同じ発音になり、それでも書き言葉だけは語源を重視して書き分けられてきました。東北や北海道では更に進んで「じ・ぢ・ず・づ」がほぼ同じ発音になっていきました。
九州や四国の一部地域では「じ・ぢ」「ず・づ」の発音の区別が近・現代に至るまで残ったと聞きますが、標準語教育やテレビ・ラジオ等の影響で絶滅の危機にあるとの事です。
最後に、この意見の正誤をまとめてみました。
正)歴史的仮名遣では「地」「治」を「ぢ」(呉音)と書くが、「ち」(漢音)が濁ったものではない
誤)「地」「治」には元々「じ」の音があった(正しくは「じ」と異なる「ぢ」の音があったが、一部地域を除き発音の方が変化した)
参考:四つ仮名(Wikipedia)(当方とは関係のない外部サイトです)
「歴史的仮名遣」と「現代かなづかい」は、そもそも根本原理が異なります。それに、文語文に現代かなづかい(後の現代仮名遣い)は適用されず、今でも歴史的仮名遣のままです。
歴史的仮名遣:昔の文献を調査して、それに倣った最適な仮名遣を研究する。「語によってかなを書き分ける」のが決まり。
現代かなづかい:従来の書き方を一旦リセットして、国語審議会で新しい書き方を創作する。「昭和時代の標準語の発音をそのまま仮名文字で書き写す」のが原則だが、歴史的仮名遣に慣れた人に違和感の大きな部分だけ、歴史的仮名遣に基づく決まりを残す。
言葉は悪いですが、「現代かなづかい」は「作られた流行」です。
印刷された本だけ見ると、確かに日本のほとんどの本が新字新かなになりました。しかし作者の原稿となると別の話です。
昭和21(1946)年に「当用漢字表」「現代かなづかい」が内閣告示され、翌年度から学校教科書もその表記になりましたが、それでも「旧字旧かな」で書く作家は絶滅しませんでした。「國語問題協議會四十五年史」pp19-20には、昭和34(1959)年当時のこんな資料があります。同人誌「風報随筆」で、歴史的仮名遣/現代かなづかいでそれぞれ書く作者の一覧です(詳しくはこのブログ記事の最後の「参考資料1」を参照)。十年以上経っても約半数が「現代かなづかい」に転向しなかった事がわかります。福田恆存、三島由紀夫、內田百閒、塚本邦雄、阿川弘之など、戦後でも歴史的仮名遣で(そして漢字も伝統的なものだった場合もあり)書き続けた作家が存在した事を、皆さんもご存じかも知れません。中には、丸谷才一の様に、一旦「新かな」に転向したものの、後に元の「旧かな」表記に戻った人まで居ました。
しかし、そんな作家の原稿であっても、必ず「旧字旧かな」のまま印刷されて出版物になったわけではありません。出版社が「旧字旧かな」での印刷を拒否したり、「『新字新かな』に直せば掲載する」と言って表記を直したりする事が多かったからです。もちろん、出版社には意地悪のつもりはありませんでした。「旧漢字」で印刷したくても、1950年代には印刷所の活字がどんどん「新漢字」に更新され、印刷所を探す事からして大変でした。「旧字旧かな」の原稿の校正や組版をしたくても、出版社ですら、その技能を持った人が絶滅寸前。「『旧字旧かな』で出版したら読者に敬遠されるのでは」との不安も、もちろんありました。残念な事ですが、「そこまで苦労するより、無難な『新字新かな』にする」方を選んだ出版社が多かったのも無理はありません。
「旧字旧かな」に理解のある出版社に比較的恵まれた方だった、福田恆存ほどの著名な作家ですら、すべての原稿をそのままの表記で出せたわけではありませんでした。不本意ながらも、「新聞や雑誌が新字新かなに直して掲載する」のを黙認せざるを得ない事もあった様です。
今ではインターネットで時折「旧字旧かな」による文章を見掛ける事がありますが、これは出版社を通さずそのままの表記で書ける媒体だからこそ、元の原稿の「旧字旧かな」のまま読めるのです。
そして「新字新かな」で書く戦後教育世代の作家ですが、大半は「国語改革に同意した」と呼ぶより「学校で習って、大半の出版物で使用され、皆が無難に読める表記が新字新かなだから」とか、そもそも「旧字旧かなで書いてもいいんだ」と気付いてすらないものです。「積極的に国語改革に賛同して新字新かなを選んだ」人は恐らく少ない気がします。
そもそも「民主的な国語」とは何ですか。意外にも事実は逆です。
民主は民主でも、「朝鮮民主主義人民共和国」と同じ意味での「民主主義」とか、「民主集中制」と同じ意味での「民主」だったりしませんか?
敗戦後に日本を統治したGHQが漢字の廃止を目指して動いたり、そのために日本人の識字率調査を行なったのは事実です。しかし、予想ほどには識字率が低くなかったため、GHQの主導による国語改造は結局実施されませんでした。
しかし、あきらめなかったのは日本人の方でした。戦前も戦後も日本人による組織である「国語審議会」が、漢字制限や漢字字体の変更や仮名遣表音化について検討してきました。それがやっと実ったのが戦後すぐで、国語審議会による「当用漢字表」「当用漢字字体表」「現代かなづかい」が学校教育を通じて広まっていきました。
国語改革は戦後急に持ち上がった話ではなく、明治時代から一部の日本人により様々な試みがなされてきましたし、戦後の現代かなづかいに近いものが大正時代には既に作られて(大正13(1924)年の「仮名遣改定案」)、ごく一部で使用されてきました。台湾・朝鮮・南洋群島などの日本の植民地でも、本土に先行して表音式の仮名遣による教育がなされてきました。(「日本の植民地に先行導入された、「現代かなづかい」のプロトタイプ版」を参照)
国語改革を推進する人々は、戦時中は「大東亜共栄圏に新しい仮名遣の国語を」と、植民地支配に便乗して新しい国語表記を外地に広めていったのですが、戦後は逆に、日本を占領したGHQの様々な「改革」の流れに便乗して、国語改革を実施したのです。ある意味、「国粋主義や植民地主義でも、それを否定する主義でも、国語改革のために利用できるものなら何でも利用する」たくましさでした。
一部のオカルト信奉者が2015年頃?から広め始めた珍説ですが、根拠はありません。
私は「旧漢字の復興」を主張するものの、この種のオカルト信奉者と混同されるのは不本意です。
「旧字旧かな=戦前回帰、軍国主義、右翼」とは「旧字旧かなを現代語の表記としては滅ぼして、新字新かなを普及させたい」人々の広める「レッテル貼り」「宣伝文句」に過ぎないので、真に受けないでください。
それでは逆に、新字新かなで書く人は共産主義者なのですか。そんな事はないはずです。戦前も戦後も、国語改革に反対したのは、文学者や国語の専門家が中心でした。小説家・エッセイストの丸谷才一は歴史的仮名遣で書いた事で有名ですが、思想的には右翼と正反対で、右翼からはあまりいい顔をされない様です。
国語問題に関する立場と、政治的に左右どちらであるかは、必ずしも一致しません。左右どころか、そもそも政治的な事にあまり関心のない人も少なくありません。
一方、「右翼」とか「保守派」を自称する団体や雑誌でも、団体名や「會」「國體(国体)」など一部の語だけ旧字である以外は国語問題に無関心であるところが多数派で、むしろ「旧字旧かな」での投稿を迷惑がるところすらあります。小堀桂一郎や長谷川三千子は「日本会議だから、右翼だから、旧かなで書くのだ」と誤解されがちですが、実は右派の中ではかなり珍しい存在なのです。
歴史的仮名遣は「明治政府が一から創作したもの」ではなく、「これまであったものを採用した」に過ぎません。
「明治時代に学校教育の始まる以前は、歴史的仮名遣は形としてはあったが、実際にはほとんど守られなかったので、伝統とは呼べない」に私は同意しませんが、もし仮に真実だとしても、「だから歴史的仮名遣を捨てて新しい表記にすべきだ」は、話が飛び過ぎです。
千葉県の京葉道路には時速60km制限区間がありますが、そこをほとんどの車が時速80kmとか100kmとかで走行するのが実態です。それでは、京葉道路に速度制限はないのですか。「守る人が少ない」からといって、「決まりがない」「決まりを守らなくていい」「決まりがないも同然なので、勝手に新しい決まりを作っていい」わけではありません。仮名遣は速度制限と違って法律でも義務でもないし罰則もありませんが、「守る人が少ない」=「決まりがない」わけではないのは同じです。
もし「歴史的仮名遣の伝統は明治時代に始まった」とみなすのであれば、「明治33(1900)年に明治政府が変体仮名を整理したので、ひらがなは平安時代のものではなく明治政府が創作した、たった百年ちょっとしか歴史のない文字」とみなさないのはどうしてですか。これを「伝統の選り好み」と呼びます。
確かに、江戸時代は醤油を「しやうゆ」ではなく「せうゆ」、泥鰌を「どぢやう」ではなく「どぜう」、「~ねえ」(~ないの意)を「~ねへ」等、一般的でない仮名遣がよく見られました。いろはがるたでも、「良薬(本来は「りやうやく」)は口に苦し」が「り」ではなく「れ」にありました。
それでも、江戸時代は現代仮名遣いや表音式仮名遣で書いたわけではありません。誤りは多くても現代仮名遣いより歴史的仮名遣に近い事は、少し調べればわかります。「当時の人が古来の表記だと解釈した書き方で書いた」が実態に近いかもしれません。
確かに、「契沖仮名遣や定家仮名遣を厳密に守ったのは国学者や歌人等の教養人だけ」は真実かも知れませんが、本の流通や教育等が現代よりも限られた割には優秀な方です。
それに、我々も現代仮名遣いや漢字を書き誤ったり、わざと間違った仮名遣や漢字で書くことすらあります(「そおゆうこと」とか「ふれ愛」の類)。しかし、これは「国語の決まりが存在しない」「一般の人に仮名遣は難し過ぎる」を意味するわけではありません。それでは、江戸時代の仮名遣についても同じではありませんか。
参考:江戸時代の仮名遣い 東海道中膝栗毛(当方とは関係のない外部サイトです)
極端な例として、もし日本語から漢字を全部なくしたり、「くっつきの『を』」を「お」と書く事にするとしたら、あなたは賛成しますか。
十徳ナイフ一本で家を建てる大工は居ません。職人は道具を「簡単だから」だけで決めるのではなく、全体的に見て「より良い道具」を求めます。言葉が「道具」であるなら、「より良い道具」の方がいいのではありませんか。
旧漢字は漢和辞典、旧仮名遣は現代語の国語辞典(見出し語の下に、歴史的仮名遣の併記されたもの)で調べます。ネットの国語辞典の場合、goo辞書で調べると歴史的仮名遣がわかります。かなの書き分け規則については、福田恆存「私の國語敎室」や萩野貞樹「旧かなを楽しむ」が参考になります。
新漢字や現代仮名遣いより手間が掛かるのは確かですが、手間を軽減する方法はあります。かな漢字変換システムに旧字旧かな辞書を入れる方法、旧字で印刷する方法を紹介した拙著「コンピュータによる旧字旧かな文書作成入門」をお読み下さい。
「左横書き」「右横書き」にはそれぞれ「用途」があります。
「右横書きなんてものはない、あるのは『一行一文字の縦書き』だ」は必ずしも正しくありません。複数行だったり、棒引きや括弧などの約物が横向きであれば、正真正銘の横書きです。
「赤シャツ」や「マドンナ」の出てくる夏目漱石の「坊っちゃん」をはじめ、明治の文学を読めばわかりますが、「旧字」や「旧かな」と「外来語」は仲良く出来ます。明治時代も「駅」「毛布」「一コマ漫画」が「ステンション」「ブランケット」「ポンチ」と呼ばれました。昭和時代の軍事に詳しい方なら、当時「戦車」が「タンク」と呼ばれた事をきっとご存知のはずです。江戸時代も「かるた」「たばこ」等の外来語がありました。
大体、「旧字旧かなの文章でカタカナの外来語を使ってはいけない」のなら、戦時中の「敵性語追放」は何を追放するためにあったのですか。むしろこれは、当時の国語にもカタカナの外来語があまりにも多かった事の証拠ですし、あまりにも無理があったので、結局は当時の出版物でも「敵性語追放」が徹底される事はありませんでした。
これが「どうせそんな書き方では書けないんだろ、それなら旧かななんかやめろよ」の遠回し表現であれば、大きなお世話です。
ここから先は本気で疑問をお持ちの方への解説ですが、「古文や文語体や万葉仮名の旧仮名で書く」のと「旧仮名を古文や文語体や万葉仮名だけに縛り付ける」のは似て非なるものだからです。
旧仮名は「古文・現代文」「文語体・口語体」「万葉仮名・いろは四十八字」のどちらにも応用が利く万能選手です。それを「古文」や「文語体」にわざわざ制限したがるのは、「現代文の口語体に歴史的仮名遣を使って欲しくない」人やそんな人の影響を受けた人ですが、この風潮に疑問を抱くからこそ、「現代文」「口語体」にも「古文」「文語体」と同じく歴史的仮名遣を適用して書くのです。
そもそも、「歴史的仮名遣で書く」のは「何であれ古いものが良いもの」だからではありません。先人達の作り出したひらがなや口語文、横文字の外来語など、新しい文字や表現などは積極的に受け入れますが、戦後の国語改革は例外なのです。
文語体や候文、崩し字などを学ぶ時も、「旧かな」は「既に知って当たり前」の前提知識です。おろそかにしてはならない基礎ほど重視して当然ではありませんか。
表記と格式は別の問題です。
「格式の感じられる美文を旧字旧かなで書く」のは確かに素晴らしいですが、「旧字旧かなを『よそ行きの言葉』だけに縛り付ける」事に反対し、「日常の言葉こそ、くだらない文章ですら、旧字旧かなでどんどん書くべきだ」と信ずるからこそ、どんな文章も旧字旧かなで書くのです。
実際、古典から近・現代の出版物に至るまで、格式ある文章だけでなく気楽でくだけた文章、ふざけた文章やエロい文章までもが旧字旧かなで綴られてきました。
「旧字旧かな」=「格式のある文章」と思ってらっしゃる方も多いかもしれませんが、それは「これまで何百年にもわたって綴られてきた数多くの文章の、ほんの上澄み」に過ぎません。国語改革の前に旧字旧かなで書かれた文章にも、駄作は数多くありました。
それでも、「澱を作らずに上澄みだけ作る」のを目指すのではなく、「澱の様な駄作」でも何でもたくさん書く事です。すると、その大量の文章の中から少しでも「上澄み」がにじみ出て来るものです。
「理由」なんて実は要らないんです。自分で判断出来る大人になったのに、いつまで「常用漢字と現代仮名遣いで書くこと」の類の「学校のハウスルール」を引きずるつもりですか。新字新かなで書く事が求められる場所や、新字新かなで他人と共同作業する場合は別ですが、原則として、インターネットはどんな言語のどんな表記も拒みません。「何となく旧字旧かなで書きたい」とか「旧字旧かなで書くのってエモい」と思ったら、誰だった自由に書いていいんです。自由に書いていい場所なのに、他人にわざわざ口出ししてその自由を制限する人の方が、むしろ変です。
それぞれ性質が異なるからです。
新字は古来から中国や日本で手書き文字や略式の字として多用されてきたものを、活字化したり正式な字に格上げしたものです。「手書き文字の書き方の常識をむやみに活字に持ち込む事」「正式な字を誤りにして略字を正式な字に格上げする事」は問題ですが、手書きの字体や略字そのものは、中国や日本の伝統です。
一方、現代かなづかいはこれまでの仮名遣と相容れない発想の新しい表記を創作したものです。
昔の文章をわざと真似て書くならその時代ですが、21世紀の現代の言葉として書くなら、現代語の辞書の見出し語の下に併記された「現代の歴史的仮名遣」が基準です。
旧仮名遣は「発音の決まり」ではありません。古語の発音(録音による記録はないので、あくまでも後の時代の推測)でも、現代語の発音でも、文字としては同じ綴りです。お好きな方でどうぞ。私は現代語の方で読みます。
「常用漢字表」も「現代仮名遣い」も「法律」ではありませんし、破った事で逮捕される事も、もちろんありません。堂々と使って下さい。
ただし、常用漢字や現代仮名遣いで書かなければならないと定められた場所や、常用漢字や現代仮名遣いで共同制作する文章については、そこで無理な抵抗をしてまでも旧漢字や歴史的仮名遣で書く事は、おすすめできません。その代り、自分自身の本を出したり、自分のウェブサイトやブログやツイッター等に書く分には、どんな言語のどんな表記で書いても自由ですから、そこでその自由を謳歌出来ますし、読みたい人もきっと見付かるはずです。
人によって異なります。そしてこの文章を書く私(押井徳馬)も、理由は一つだけではありません。これをお読みのあなたがどんな方なのかによって、それぞれ別のお返事を用意してみました。
戦前教育世代の皆さんへ:昔ながらの書き方の方がより優れた部分もあると私は信ずるので、現代の国語として実践したいのです。
戦後教育世代の皆さんへ:普段使用する新字新かなだけでなく、旧字旧かなも学んで実際に実践する事で、より豊かな国語表現の可能性を探りたいのです。
伝統文化に関心のある皆さんへ:私達のご先祖様が一生懸命研究して大事に育て上げてきた文化を実践しながら学び、後の世代に継承したいのです。
コンピュータに関心のある皆さんへ:今は旧字旧かなで文章を書いて印刷するソフトがきちんと揃ってるので、私なんてそれを見たらむずむずして実際に使ってみたくなるものですよ。
同人誌に関心のある皆さんへ:「艦これ」や「文アル」の同人誌を旧字旧かなで出せたら面白くありませんか?
地学に関心のある皆さんへ:昔の文書を翻刻する事で、昔どこでどう地震や津波が起きたかを知って、将来に役立てる事が出来ますが、伝統的な国語表記を知っておく(実際に書いて学ぶのはその早道)事は、これを含め、意外な分野で役に立つものです。
文学に関心のある皆さんへ:私も戦前の文豪が好きなので、リスペクトしてこんな表記で書くのです。
懐古趣味に関心のある皆さんへ:私も戦前文化が好きなので、リスペクトしてこんな表記で書くのです。
不公正を憎む皆さんへ:新字新かなしか知らないのに旧字旧かなは駄目だと決め付けるのは嫌なので、両方を実際に使って判断しようと思ったのです。
人権に関心のある皆さんへ:「表現の自由」が大事である事のアピールを私なりの方法で実践してるのです。
鉄道に関心のある皆さんへ:SLを公園で野晒しにするだけではもったいないと、大きな手間を掛けて動態保存(動く状態でメンテナンス)するのと同じです。「専門家が研究するだけの死んだ言葉」ではなく、「現代の生きた言葉とし て動態保存」したいのです。
電気回路に関心のある皆さんへ:回路図の抵抗器を新JISの長方形ではなく、旧JISのギザギザで描く人は今でも多いものですが、私も国語表記の分野では、訳あってなるべく旧規格の方で書きたいのです。
「旧字旧かな古いから良い、新字新かなは新しいから駄目」ではありません。
「旧字旧かなは一見複雑に見えるが、決して無駄な複雑さではなく、きちんと意味がある。しかし新字新かなは、目先の簡単さに釣られて、そのきちんと意味のある書き方を安易に捨て去ってしまった。しかも、その新しい表記を決定した過程にもいろいろ問題がある」が私の主な理由です。もちろん、他の人に聞いたらまた別の返事が返って来るかもしれません。
(ページの上の方にある「漢字廃止/削減論、仮名遣表音化論の背後にある発想」「漢字廃止/削減反対論、仮名遣表音化反対論の背後にある発想」もご覧下さい)
使った人でないとわかりません。ですから是非実際に読んだり書いたりして下さい。
それは半分冗談として、「文化」に貢献出来るし、「楽しい」からやるのです。「同じ国語を異なる視点から読み書き」出来て視野が広がります。表面的な「表記」を知る事も大切ですが、どんな「発想」や「精神」からそんな書き方をしたのかを知る事こそ大切です。
「今でも旧字旧かなを愛用する人が居る」事や、ふざけてとかキャラ作りのためにそんな表記で書く人ばかりではなく、「戦後の国語改革の方針よりも、それ以前の伝統的な方針を支持する」をはじめ様々な理由から実践する人の事を理解していただければ、それだけでも嬉しいです。
実のところ、旧字旧かなの勉強云々といっても、それ以前に説明しなければならない事が山ほどあります。「旧仮名遣、旧字など用語の正しい意味」「五十音表の配列」「学校教育が旧字旧かなから新字新かなに移行した歴史的経緯」「旧字や旧かなはどんな発想に基づく書き方なのか」……。表面的な国語表記だけでなく、背後にある発想や精神も大切です。
マイナージャンルの同人誌と同じで、「公式の供給がないからこそ、自分で書いて供給する」ものです。旧字旧かなにないのは「需要」ではなく「供給」です。そして「供給」があれば自然と「需要」も湧いてきます。
「技術書典4」では拙著「コンピュータによる旧字旧かな文書作成入門」が即完売、ツイッターだけでも、歴史的仮名遣を日常的に使用するアカウントが百七十以上ある程で、自分では書かないがむしろ読みたい人も更に沢山と、実は予想以上に多いものです。(隠れてる?)
私の観察によると、ツイッターでは、旧字旧かなによる投稿であっても、「読者の関心のある話題であれば、そんなの関係なくリツイートやいいねが沢山付く」し、「関心のない話題であればあまり付かない」ものです。まれに、何千とか一万以上もリツイートやいいねが付く事もあります。あれ? 内輪以外に読む人が居なかったはずではないのですか?
参考:歴史的仮名遣を読めるツイッター利用者は何千人単位で存在する
新字新かなを知りたい人こそ、旧字旧かなの知識があった方が有利です。「急がば回れ」です。丸暗記だけに頼るのではなく、体系立てて覚える事が出来ます。
仮名遣では、どうして「おおかみ」は「おお」と書くのに「おうさま」は「おう」と書くのか、子供時代に疑問に思った人は多いかもしれませんが、これを含め、歴史的仮名遣を知ってこそ説明がたやすくなる、現代仮名遣いの決まりがあります。
また、常用漢字も旧字体を知ってこそ説明がたやすくなるものがあります。「どうして博の字の右上には点があるのに、専の字には無いのか」は、旧字を見ればまるで別の文字部品である事が一目瞭然です。部首も旧字がわかってこそ理解しやすいものがあります。中国語を勉強するのであれば、旧字体(中国語だと繁体字)が、簡体字と日本の常用漢字の関係を知る補助線になります。
「高い山ほど裾野が広い」ものです。わざわざ裾野を狭くすると、安心して任せられるはずの「高等教育を受けたエリート」すら育たなくなります。
それに、まだ新字新かなに直されてない面白い作品は山の様にありますが、「エリートの選んだ作品だけしか読まない」なんて、もったいない。「エリートの選んだ歴史資料をエリートの解釈だけで読む」のは、下手すると「一部のグループに都合の良い歴史観」に偏る事になります。読みたい人がもっと増えると、「みんなの知らない作品を発掘」したり「偏った歴史観を正し」たり出来ます。そして、現代の国語も更に豊かにする事が出来ます。
「象やライオンはアフリカには要らない、幾つかの動物園で育てればそれで十分だ、もと住んでた場所は農地にすればもっと役に立つ」に同意する人は少ないはずです。それでは、旧字旧かなの文化についても同じではありませんか。エリートによる研究は大事ですが、それだけにわざわざ依存させるのは「文化の死」です。
読む事ではなくて書く事ですか? これはエリートもあまりやってない分野なので、誰がやるか? 一般人でしょ。
「現実」が困難だからと「理想」まで捨て去るなんて悲しい事はありません。
外国が実効支配中の竹島や北方領土が日本に返還される可能性は絶望的に低いですが、それでも泣き寝入りせず声を上げないといけないと信ずる人は多いものです。それと同じで、旧字旧かなが日本国の正書法として復活する可能性は絶望的に低いですが、それでも現実はともかく、国語審議会(新字新かなで書く個々の人ではなく)の過去の過ちは過ち、と私ははっきり主張します。それは、二度と同じ過ちを繰り返さないためでもあります。
言葉はコミュニケーションの道具である以前に「思考の道具」でもあります。言葉もあまりにも簡単にし過ぎると簡単な事しか思考できなくなり、簡単な事しか表現できなくなります。結局それ以上の事は、教養のある人だけが「英語」を使って表現する事になりかねません。
日本人が日常生活で英語を使用せずに済むのも、戦後の国語改革で辛うじて(抽象語を多く表現できる)漢字が残ったおかげでもあります。
「発音より語の構造を優先する」のに利点があるからで、意地悪したいからではありません。
漢字も一つの音に複数の漢字が当てはまりますし、現代仮名遣いにも歴史的仮名遣の規則を残した部分が一部あります(「ゆのみじゃわん」ではなく「ゆのみ」+「ちゃわん」とすぐわかる「ゆのみぢゃわん」と書く、等)。漢字も仮名遣も最初は確かに難しいのですが、慣れると、言葉の意味や、別の言葉との関係や、文法を理解しやすくなります。
「言う」は「イ・ウ」ではなく「ユー」、「体育」は「タイク」、「気を付け」の号令は「キョーツケ」と発音されがちですが、それでも活用や語の構造を優先して「いう(歴史的仮名遣では『いふ』)」「たいいく」「きをつけ」と書きます。「たいく」「きょおつけ」と書くと「育」や「気を」である事がわかりづらくなります。「発音通り」に偏る事なく、「単語の構造がわかりやすい」との適度なバランスが必要なのです。
それでは「漢語のない日本語」を是非実践してみて下さい。不可能と呼んで良いほど困難なはずですし、もし出来たとしても「これまでの日本語とはまるで別の言語」になります。和語だけでは「学術的な専門用語」や「抽象概念を表す言葉」がとても足りないので、「頑張って自給自足する」か「漢語を取り入れる」か「欧米の言語を音訳する」かしかありません。
本当は和語で自給自足したいところですが、和語には「言葉が長くなりがち」な短所があります(まさか、母音の数を八音に増やして、言葉が短くても区別しやすい様にするなんて思ってませんよね?)。それに、和語で新しい言葉を創作するには、これまで蓄積されてきた大量の古語も利用しながら、その組合せで作る事になりますが、まさか「古語の知識は必要ない」なんて思ってませんよね。
英語などの音訳は、作るのは簡単ですし、新しくて洗練された印象の言葉になりますが、日本語とのつながりの弱い言葉なので、元の言語を知らないと不効率な丸暗記になります。
漢語は「同音異義語が多い」「漢字をたくさん覚える必要がある」一方、「漢字の訓読み・音読みを通して、和語とのゆるいつながりが出来る事が多く、比較的覚えやすい」「短い言葉で多くの事を表現出来る」利点があります。わざわざ漢字を捨てるなんてもったいない事はありません。
いいえ、「新字新かな」を使用するだけの事では(少なくとも私は)非難しません。私は「当用漢字表・現代かなづかい(今の常用漢字表・現代仮名遣い)の決め方や内容には問題があったが、それは国語審議会の責任」とみなすので、誰かが新字新かなで書く事自体は別に非難する必要性を感じませんし、会社などに出す文書を含め、私自身それで書く事もあります。理想は忘れないのですが、そこは現実的な対応をします。もちろん、現代仮名遣いで書く人々とも普通に仲良く文章を遣り取りします。
私はこの種の発言をしないのですが、この場合は前後の文脈や、討論相手の発言も観察して下さい。恐らくその前の討論相手の発言に、「旧字旧かなで書く人は例外なく頭がアレ」とかそれに類する発言があるはずです。「あなたは『旧字旧かなで書く人は例外なく頭がアレ』と勝手に決め付けるかもしれませんが、逆に『新字新かなで書く人は例外なく頭がアレ』と勝手に決め付けられたらどう感じますか」が、その言葉の背後にある意味です。
野嵜氏の発言として私も時々見掛けますが、これには補足が必要です。本人に聞かないと正確なところはわかりませんが、恐らく以下の意味です。
旧字旧かな:元々決まりがないところに初めて出来た決まりなので、「先占取得」した領土の様なもので、正当に存在し得るもの
新字新かな:旧字旧かなと交代するだけの「相応の理由」もなく、また上記を学術的にとか民主的にではなく、国語審議会の漢字廃止論者を主とする「クーデター」で覆したもので、その制定過程にも色々問題があった
いいえ。政府非公認でも、学校教育で「死んだ言葉」にされたとしても、私は勝手に歴史的仮名遣で書くだけです。実際、俳句や短歌をはじめ、今でも細々と生き続ける表記です。いちいち政府に「歴史的仮名遣を使っていいですか?」「学校教科書を歴史的仮名遣に戻してくれないと、ぼくたちも歴史的仮名遣で書けないので困ります!」なんていちいち陳情するまでもありません。マザコンではあるまいし。
「時代により変化する」と「だから新しい書き方を創作して、古い書き方を誤りとすべき」は似て非なるものだからです。
また、旧字旧かなで書くのは、「古ければ古いほど良い」からではなく、「他の変化は受け入れられても、新字新かな、特に新かなは受け入れがたい部分がある」からです。
「俺達は読み書き出来るが、どうせ読めるはずがない」と相手の能力を馬鹿にして教養をひけらかしたいのではなく、「みんなもきっと読めるはず、特に歴史的仮名遣は」と信ずるからです。新社会人の大半が大卒である現代は尚のことです。
また、旧字旧かなの知識を「仲間内だけの秘伝」にしたくないからです。読んでみたい多くの方にこの文化に触れていただきたいからこそ、多くの人が読める媒体で公開するのです。
確かに、旧かなはともかく旧字は読み慣れない人が多いのは確かですし、本当に読み慣れない方には私自身は配慮します。しかし世の中には、「誰かを仲間外れにする道具」として「旧字旧かなで書く人は相手に読ませる気がない」など一見正論に見える主張を持ち出す人が時々居ます。その種の人は「相手を仲間外れにする」結論が決定済なので、相手の表面的な主張通り仮に新字新かなで返事したところで、同じく相手にされません。私はその種の人と、本当に読み慣れない人とを区別して対応します。
戦後の国語改革で、これまで一般的ではなかっただけでなく、国語の根本原則を覆した「自分勝手な書き方」を国語審議会が一方的に決めて学校教育で既成事実化したことこそ問題だ、と私は信じます(何度も書きますが、新字新かなで書く個々の人の問題ではなく、国語審議会の問題です)。
そして、「旧字旧かな」は「文化」です。インターネットでは、どんな言語・どんな綴字法で書くかは当人の自由ですし、「みんなが理解出来る芸能人やプロ野球の話題等だけ書くこと」といった決まりも無く、コンピュータや哲学等の専門的な話題を書くのも自由ですから、その自由を活用したいと願ったり実践するのは自然な事です。
中には、単に自分が個人的に目にしたくないだけなのに「みんなが読みづらい書き方はやめた方がいい」と、架空の「みんな」を持ち出して一見正論に見える非難をする人も居ますが、一部の人の個人的な「地雷」のために旧字旧かなで書く事自体をやめる事はしません(その人自身には配慮しますが)。
さて、駅の発車標の韓国語を「不快だから」「駅の利用者の大多数である日本人が読めないから」との名目で「やめて欲しい」と文句を付ける人を最近見掛けます。「不快だから」「大多数の日本人が読めないから」と旧字旧かなを排除する思想はこれに似た部分があり、私は危機感を抱きます。
そもそも、多数派の国語表記で書くべきだとみなすのなら、なぜもっと人口の多い英語や中国語で書かないのですか。人数の多い少ないではなく、「自分が読みたいかどうか」なのではありませんか。
それを実践すると今度は「言葉はコミュニケーションの道具なのに、旧字旧かなで書く人は、相手に読ませる気がない」と文句を言ってくるのでは。生憎私は「完璧主義者」ではありません。「無理なく可能な範囲で」実践すればいいのです。
どうして駄目なのですか。様々な証拠を検討した上で「正しい」または「否定すべき理由がない」からこそ擁護するのではありませんか。「お気に入りのチームはセーフにして、その相手チームはアウトにする」スポーツの審判を私は信用しませんが、それと同じ事です。大体世の中、自分にとって生理的嫌悪感が湧くものであっても、正しかったら擁護しなければならなかったり、自分にとって好きでも、間違ったものであれば捨てなければならない事があります。
人により異なりますが、有名アーティストのコピーバンドと同じで、「自分自身のキャラ作り」よりも「尊敬する先人達へのリスペクト」の気持ちの方が大きいかもしれませんよ。
特に恰好付けて書いてるつもりはないのですが、そんなに恰好良く見えるのなら、ご自分で使ってみてはいかがですか。
悲しい現実ですが、それ以外の人は、嫌がらせに反撃せず「大人の対応」をして、潰されてきたんですよ……。あまり苛めないで下さい。
また、「本当に旧字旧かなを読み慣れない」のか「遠回しの言葉で相手を馬鹿にしてる」のか判断しづらい事が時々あります。もし前者のつもりでしたらごめんなさい。
蛇足ながら、特定人物を非難する時に「旧字旧かなで書く人は」云々と特徴で遠回しに書く人が多いのですが、関係ない沢山の人を巻き込んで炎上する元なので、避けた方が賢明です。また、ツイッターは鍵アカウントにしない限りは「文字通り誰でも読めて、その投稿に誰でも返信出来る場所」です。旧字旧かな云々に限らず、「FF内しか読めない場所」とか「自分のおうちみたいなプライベートな場所」と誤解して不用意な発言をしたために炎上する事が時々あるので、ご注意下さい。
好きなものや大事にするものを馬鹿にされてもへらへら笑ってるなんて、そんなのは嫌です。それに、そんな言葉を真に受けて「『大人の対応』をして大人しくすれば、事実に反する中傷や、『博学ぶって気持ち悪い』『みんなが見る場所で旧字旧かなを書くな』みたいな暴言を本当にやめてくれる」と信じ込む程、私はお人好しではありません。
まあ、これを別の言葉で「寝た子を起こすな」と呼びますが、この方法が本当に役立つのならどんなに幸せか知れません。私も「事を荒立てず、穏便に対応した方が良いのでは」と思った時期もありました。しかし事実は残酷です。より穏健派の私がきっかけの人よりも、アンチを激しい言葉で糾弾してきた野嵜さんがきっかけで旧仮名の味方になった人の方が断然多いし、アンチに堂々とNOと主張する人が増えて「面倒臭い連中だ」と呆れられる様になった今の方が、むしろ昔よりは旧字旧かなの愛用者について周囲に理解される様になってきました。
確かに黙って放置した方が適切な場合もあるかもしれませんが、きちんと反論した方が適切な場合も多いものです。それぞれ「適切な時」があります。放っておいても問題は消えませんし、むしろありがたい事(皮肉)に、旧字旧かな(で現代の言葉を書く事)を憎む人々が私達の事を代りにいろいろ宣伝してくれます。
また、事実に反する暴言や嫌がらせによる実害(特に、旧字旧かなで自由に書けるはずの場所や状況なのに、一部の人が勝手にルールを決めて「自治行為」をしたり、暴言や嫌がらせへの恐れから実践しにくくなるといった、自由な文化活動の萎縮)がある場合は特に、泣き寝入りせずに対応する事もありますが、これは旧字旧かなを受け入れる受け入れない以前の問題です。
それに、「評判を損ねる」根本原因は、旧字旧かなで書く人に暴言を吐いたり仲間外れにして楽しむ人々の方ではありませんか。もちろん、被害者の側も不適切な行動がないとは限りませんが、加害者をスルーして被害者の傷口に塩を擦り込むのは、優先順位があべこべです。
「言論の自由」とは、「本当の事でも嘘の事でも、一方的に主張して、反論を受け付けない」自由ではありません。誰かが旧字旧かなを理由を挙げて非難するのは自由、そしてそれに反論するのも自由。これが「言論の自由」です。一見正論に見える「反論封じ」こそ「言論の自由の侵害」ではありませんか。
戦前の文学や戦前教育世代の人々を「リスペクト」するなら、その真似をしたくなるのは極自然な事ではありませんか。ビートルズをリアルタイムで知らない若い世代も、その音楽が素晴らしいと思つたらコピーバンドを作るのはよく見られる光景ですが、それと同じです。
「旧字旧かなによる返事を自粛」する事は、一見良い事の様に見えます。しかし、必ずしも良い事ばかりではありません。この意見の問題点を挙げてみました。
∑(゜д゜υ)ハッ!! この文章が「現代仮名遣いのふりをした歴史的仮名遣」(「質問文」「現代仮名遣いによる単語や文章の例」「『現代かなづかい』『現代仮名遣い』の名称」を除く)であることがバレてた!!
※「広辞苑前文方式」と呼びます。なぜ「広辞苑前文」なのかはググって下さい。
それなりのお金(時価)を出してくれるなら現代仮名遣い版も作ってい……大きなお世話です! 「歴史的仮名遣でも読みたい」「歴史的仮名遣でこそ読みたい」人も大勢居るので、私はそれらの人のためにも、歴史的仮名遣で書き続けます。
文責:押井徳馬(はなごよみ http://osito.jp)